うさぎやすぽんの愛・スクリーム アイスボックス編

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京都の夏は暑い。

毎年夏が来るたびに思う。夏休み、実家に帰って京都駅に降りると、京都の夏の香りがする。むわっ、と、顔にまとわりつき、じんわりと胸に染み付くような暑さ。

日中、外に出ると後悔する。太陽はいつだってぼくの味方をするわけではない。暴力を振るうことだってある。

京都の夏は、クソ暑いのである。

 

そんな夏にはやはりアイスが不可欠だ。ガリガリ君にすらシーズンオフはないとぼくは思っているけれど、夏にコンビニの影を見るとアイスを買わねばならないような気がしてしまう。

そして、ぼくは、夏に食べる「アイスボックス」が好きである。

 

二回連続森永製菓と続くところにぼくの森永製菓への愛を感じて欲しい。

さて。表題は「愛・スクリーム」なんていうサムいネタをはさんでいるけれど、アイスボックスは氷菓である。

原材料は果汁と砂糖。その他着色料や香料とシンプルな構成。脂肪分は当然入っておらず、アイスクリームと表現される可能性は極めて低い。

お菓子、と呼ぶのもどうかと思う。一番近いのは「氷」だからだ。しかし、この甘酸っぱい氷を口は欲してしまうのである。

 

なぜか鮮明に覚えている。

今日みたいに暑い日だったと思う。小中と乗っていたマウンテンバイクでぼくは旧千本通を南下していた。どこに向かっていたのかは覚えていない。でも、確かにあの通りを、日陰を探しながら、地蔵の祠にちらりと目をやりながら、アスファルトに反射する陽の光を薄目でみながら、ぼくはコンビニで買ったアイスボックスをむしゃむしゃ食べていた。

アイスボックスはむしゃむしゃと食べるに尽きる。氷なのに甘く噛んでも、しゃく、という音を立てながら粉々になる。そのまましゃくしゃくと噛んでいくと、細かく散った氷の粒が下を冷やしながら溶けていき、酸味がすうっと口の中を通り過ぎると、甘さがじんわりと口の中を広がっていく。

しゃくしゃく、しゃくしゃくと噛んでいく。汗は額を伝うし、背中や脇にはじんわりと染み込んでいく。暴力的な日差しはじりじりとぼくを痛めつけていく。でも、こんな中でアイスボックスを食べるのは、まさに夏という気がして、そのときは日差しとか暑さとかも、別に敵だとかそうは思わなかったのだ。

 

そういえば最近、アイスボックスの新しい味わい方を知った。

まずはグラスにアイスボックスを好みの量を入れる。そこにミントリキュールを垂らし、ジンジャーエールを注ぎ込む。

これだけで、夏にぴったりの爽やかなカクテルが生まれるのだ。

初めて飲んだときは思わず笑ってしまった。ミントの爽やかな香りとジンジャーエールの刺激的な香り。そこにアイスボックスの持つ甘さと舌触りが口の中に遊びをもたらす。思わず笑ってしまうほどの美味しさである。

アイスボックスにこんな大人な顔があるとは。10代のぼくはそんなものつゆとも知らず、アイスボックスはただただ夏の青空の下で爽やかに食べるのが一番だと思っていたのである。

 

大人になっていくと、それまで信じていたイメージが突如として変わることがある。

例えば恋愛だってそうである。

中高の頃は、恋なんていうのはレモンスカッシュのように甘酸っぱいもので、爽やかで、そして純粋なものだと思っていた。

しかし、大学生になるとレモンスカッシュなんてものは幻想で、どちらかというとレモンサワーに近い。恋愛なんてみんな自分を誤魔化しながら酔うものだ、なんて考えが浮かんでくる。

レモンのような爽やかな香りよりも、アルコールと汗とかきな臭くてサブカル臭いものが合うような気がしてくる。

相手のスペックがどうだとか、セックスしたかしてないかとか、打算だとか妥協だとか。

まぁ、そういうもんだったんだろう、と認めるのが大人になるということである。10代の頃にはわからなかったのだ。

 

でも、あの頃食べたアイスボックスの美味さが忘れられない。どんなに美味しいカクテルを飲んでも、あのときのアイスボックスの喉を突き抜ける爽やかさは、なんだったんだろう、と思うのである。