サタデー・ミスタードーナツ・クラブ
「なんか急にミスドに行きたくなっちゃった」
と言われると「うん」としか言えなくなる。
ぼくは常にミスタードーナツに行きたいと思っている。でも、何かしらの事情で我慢している。カロリー。時間。お金。ミスタードーナツとぼくを遠ざける理由はたくさんある。だから行かない。我慢する。
けれど、彼女が言うんですよ。「ミスドに行きたくなっちゃった」それに反応するのはぼくの積み重ねてきた建前ではない。
「うん、行こう。ぼくも行きたかってん」
根っこの部分。心である。
ところでミスタードーナツは本当にいいお店だと思う。ぼくは絶対にセールの時ではなく定価でドーナツが売られているときにミスタードーナツに行くようにしている。それほどミスタードーナツのことを考えてる。でも一方通行だから、もしかしたらミスタードーナツは「セールの時にこそ来てくれ」と思ってるのかもしれない。誰かのために、と考えたことが仇になることは往往にしてある。相手が女性ならなおさらだ。ミスタードーナツはきっと男性なのだろうけど。
何がいいかって聞かれたら困るけど、とりあえずいっぺん行って欲しい。行ってホットのコーヒーかカフェオレを注文して、ドーナツを1つ。お腹が空いていたら2つとか注文してもいいかもしれない。トレーを持って好きな席に行こう。女の子と来るならきっと向かい合ったほうがいい。そしてホットのコーヒーを飲む。きっとわかるはずである。
ところで女の子とミスタードーナツに行くという行為は非常にいいことだと思う。「とりあえずミスドに集合ね」なんて素敵だ。ミスタードーナツはちょうどなんだ。手を抜きすぎてないけれど、力を入れすぎてるわけでもない。
集まって何喋るかなんて知らない。
「距離感ってわからんよね」
「どういうこと?」
「恋人との距離感とか、友達との距離感とか」
「ふーん」
「例えば仲良い友達の距離感が1メートルやとして」
「じゃあ恋人との距離感は2メートル?」
「あれ?0メートルとかじゃなくて?」
「どうだか」
みたいな、思いついたくだらない話でいい。何回話が振り出しに戻ってもいいし、なんなら喋らなくてもいい。その間はコーヒーのおかわりを持って来るお姉さんが埋めてくれるはずである。「コーヒー、お代わりいかがですか?」「ありがとうございます」そして、コーヒーの香りが広がる。誰かが隣に座ったような気分だ。彼女はきっと、また話したいことを思い出すに違いない。
ミスタードーナツで会う、そのことに意味がある。そうだ。毎週土曜の夜、ミスタードーナツで会おうよ。サタデー・ミスタードーナツ・クラブ、これでどうだ。スケジュール帳には書いておこう。
ミスタードーナツで会って話して解散。そんな高校生みたいなことでいい。お互いの関係とかどうでもいい。多分幸せってそこにあるんじゃないですかね。ほら、たまにはフレンチクルーラーでもたべるか、みたいなことを思うような、幸せ。
亀十が好きなあの子とぼく
亀十というどら焼き屋があります。
いや、どら焼き屋というには語弊がある。正確には和菓子屋であり、そこのどら焼きが目玉商品なわけであります。
1個315円。どら焼きにしては少々高い。しかし、土日となると行列は絶えることはなく、東京一有名などら焼きであると言っても過言ではありません。
この人気の正体は果たして。亀十の謎を追い、一同は浅草へと向かったのである。
結論を言うと、美味しいのです。ただ、ぼくは亀十よりも好きなどら焼きがある、それだけ。
しかしここで問題がある。例えばあの子、ほら、あの子。教室の窓際で窓の外を、ぼけっ、と眺めていて、なにを見てるのかなと気になって近づいてみると、「あっ、 すぽん君、この前言ってた穂村弘の本、買ったよ」と言うようなあの子です。
あの子がもし「一番好きなどら焼きは亀十のどら焼き」と言えばどうなるだろう。
これは重要な問題です。人として、男としてどうなのか、を問われている。皮と皮とで挟まれた、あの粒あんに。
例えば「亀十美味しいやんな〜。でももっとぼくが好きなどら焼きがあんねんか」 と返すのはどうだろう。
これは自分の趣向と博識(どら焼きに関して)をアピールすることを旨とした返答です。
「すぽん君って、私よりどら焼きについていっぱい知ってるんだ……きゅん」
うん。いいんじゃないですか。やはり男は「パエリアってもともとは内陸で作られてたんだよ」と言えるぐらい博識であるべきですし、こだわりというものを持たなあかん。そう、男として。男としてどら焼きに妥協してはならん。
しかし、これでは「君とは合わない」とか「君はなにも知らないんだね」というニュアンスになりかねない。女性は共感を求める生き物であると、ネットのコラムで読んだことある気がします。そうだ、違う。共感なんだ。
「亀十美味しいやんな。この世で一番好きなどら焼き、亀十。亀十は美味い」
これでどうですか。亀十って三回言ってるし。
いや、でもこれを言ってあの子が喜んでくれたとしても、もしかしてたいへんな嘘をついてしまったのじゃなかろうか、とぼくはずっと胸の奥で悩み続けるのかもしれない。
ああ、あの時嘘をついてしまったんだ、と。
例えば結婚して、披露宴で「新郎新婦をつなぎとめたのは亀十のどら焼き」とか言われたらどうですか。ずきん。痛む。これは胸が痛む。ごめん、ほんとはぼく、うさぎやのどら焼きが好きなんだ。例えば彼女が浅草に寄るたびに「あなたが好きだと言ったから」と亀十のどら焼きを買ってきたらどうか。ああ、美味しいね、って、言いながらも「ひょっとして彼女はメンヘラなのでは?」と思ってしまうんじゃないかって。
たいへんだ。これはたいへんな問題だ!
そう言いつつ、ぼくは「うさぎや」にどら焼きを買いに行きます。なんでもいい。君が笑ってくれればそれでいい。そうだ。君にもこのどら焼きをわけてあげよう。口に合わなかったらそのときはそれだ。別に、どら焼きの好みが一緒の君が好きなわけじゃないし。つぶあんが好きならそれでいいんです。こしあんが好き? ちょっとそれはどうかと思いますけどね。
黒髪ショートのヒロインとどら焼き
黒髪ショートの女の子が好きです。
こう言うと世間の「ものがわかった風」な女性たちは口を揃えて言う。アラサーちゃんとか読んで人生わかったみたいな顔してるやつらです。そう、「お前は面食いなだけやろ」と。
確かにぼくは可愛い女の子が好きで好きでたまらなく、クリームパンを咥えた可愛い女の子などを見ると愛情表現の仕方がわからなくなり、神楽坂の真ん中で一句詠むかもしれません。勿論、自由律季語なし。
でもこの風潮良くないと思うんです。
世の中「顔よりも性格を重視する」という人の方が「性格がいい」と思われがちであり、面食いを主張するとまるで愛犬の敵であるかのように軽蔑される。
しかし考えてみれば性格の良し悪しの判断基準はどは人によって違うものであり、例えば「つぶあんよりも白あんの方が好きなんですよ」と言うだけで「この人、性格いいんだ……キュン」とくる女性もいるかもしれない。
そもそも「性格が良い悪い」と人を判断するぐらいの人間のほうが性格が悪いのではないか。男ならどんな性格の女性が目の前に現れてもどんと構えんか、と。例えば目の前でピクルスを避けられたとしても、男なら「ところで香水変えた?」と言えるスマートさを。
だからぼくは唱え続けます。黒髪ショートが最高や、と。面食いとでも性格が悪いとでもなんとでも言うが良い。お前らは道端の石に罵声浴びせて楽しいのか。
前置きが長くなったんですけど、最近勉強がてらライトノベルを読んでます
つい昨日読み終えたのが田中ロミオ作「AURA〜魔竜院光牙最後の戦い〜」
なんとまぁ、これが面白かったわけであります。ヒロイン黒髪ショートだし。
別に考察とかできるほど本をぼくは読み込んでないんですが、ぼくはこの作品良いものだと思ってます。ヒロイン黒髪ショートだし。
主人公の少しメタな視点が痛快で、そして展開も途中ダレるところはあるかもしれないけれど、文章が面白いので気にならない。ヒロイン黒髪ショートだし。
話は上手くまとまってて、テーマも一貫してて、なによりヒロインはずっと黒髪ショート。こういう優れた作品には敗北感を感じます。
なによりラブコメって良いじゃないですか。ラブアンドコメディ。ぼくの人生にもラブアンドコメディがあれば良い。君の人生にラブアンドコメディはあるか?
人生は喜劇だの悲劇だのなんだの言う人はいますが、まずはラブがなければ。ラブって一体なんなんだ。とりあえず擬音は「ずっきゅん」なことはわかっているけれど、それ以降はレオナルドダヴィンチも触れていない。知らんけど。
兎に角ここでぼくの野望を宣言いたしますと、いずれ、イラストの上手な方に「どら焼きで口元を隠した黒髪ショートの女の子」の絵を描いてもらい、ツイッターやこのブログのアイコンにしたいと思っています。どら焼き、黒髪ショート。これは、彼女の物語であり、そしてぼくの物語なわけでもある。
亀井堂のクリームパンと坂道と人生
亀井堂が好きです。
第一声というのは大事なものでして、それはというのも人は第一印象が基盤として今後の関係性を築いていくものだからですね。
まず人と初めて会うときは、見た目で9割方判断されます。「おう、あの眼鏡、眠そうな顔してるやんけ」これが9割。その後に印象をつくるのはその人の第一声。「亀井堂が好きです」
さて、これでぼくの第一印象は「眠そうな眼鏡(亀)」になるわけです。そのあと、出会った少女は家に帰りシャワーを浴び、ソファに座ってプリンのラベルに書かれたカロリーを確認しながら、ふと思うわけです。「あの人甲羅背負ってなかったっけ?」
というわけでぼくの初めてのブログの書き出しは順調に滑ったわけなんですけど、亀井堂のクリームパンはそんなのどうにでもええわいと思うぐらい好きなんです。
お店は神楽坂の赤城神社のすぐそばにあります。なんともレトロで可愛らしい。魔女の見習いが出て来るんじゃないかしらん、と思えるような外観。窓から覗くと、おやおや、クリームパンが並んでるではないか、と思わず顔がにやけます。中に屈強なおじさんがいたら、ぼくの顔つきの怪しさゆえに、きっと出てきて凄まじい筋肉を見せつけて、ぼくを追い払うことでしょう(勿論、その際に服は破れます)
クリームパンは手のひらでずっしりと重みがあります。しかも焼きたてに当たればラッキー。家に帰って食べることが困難になります。
「今すぐ食べたい」
ぱくり。懐かしく香ばしいふわふわのパンの香り。そしてぷるるんと震えるカスタードクリーム。程よい甘さ。これよ。クリームパンのクリームはこうでなきゃ。実はパンに包まれてるのはクリームではなくぼくなのでは?
自転車できこきこ、神楽坂を下ります。
片手にはクリームパン。こんなはずじゃなかったのに、という言葉の説得力を無くすもぐもぐ。下っている。こんなはずじゃなかったのになと思いながら。でも、なんか生きててそういうことって多くないっけ? 知らんけど。